私は良い子だったと思う。大人が駄目と言ったこと(もしくは言うであろうこと)はしなかったし、先生の手伝いも良くした。成績は飛び抜けて良い訳ではなかったが、まあまあ平均を保っていたと思う。そんな私を周囲は「真面目でこつこつ物事を突き進めていくタイプ」「おとなしいが芯はしっかりしている」「穏やかで縁の下の力持ちなタイプ」等々と評価した。
私は評価される社会で生きてきた。その評価で自分の今居るポジションを確認し、自我を形成してきた。では、それが全くなくなって、他人が下してきた(下すであろう)自分への評価を自分で推し量るしかなくなったら一体どうなるのだろう。
今私は家庭に入って子育てをして…所謂主婦になった。毎日必死に仕事をこなしても時間が足りない。段取りが悪いのだと思い、子どもの授乳時間に合わせて四時半に起きて家事をしてみた。それでも何だかうまくいかない気がする、まだまだもっとできるはず、私がしっかりしなくちゃ、良いお母さんで良い奥さんでもっともっと頑張って甘えちゃ駄目だ…。毎日そう考えていたら、ある日悲しくもないのに涙が出てきて体を動かす気力も無くなった。そんな私を見て主人が言った。「もっと手を抜いても誰もサボっているなんて思わないよ。でも君自身はそれが許せないんだろう?君は今自分で自分の評価をしなければならない社会にいるからね。」
主人の言葉に妙に納得して気持ちがすっと軽くなった。私は評価が欲しかったのだと思う。誰かによく頑張っているよ、と言って欲しかったのだろう。でもそうではないのだ。今まで他人の評価で自分の価値を見出していた私には、自分が頑張っていると実感できていないのだ。例え誰かに何かを言われても私自身が実感できなければどうにもならない。と言って手を抜こうとも到底思えないが、ほんの少しだけ自分を許してあげることにした。何故かイライラして泣いているお母さんより馬鹿みたいに笑っているお母さんの方がずっと素敵だと思うから。
私は評価される社会で生きてきた。その評価で自分の今居るポジションを確認し、自我を形成してきた。では、それが全くなくなって、他人が下してきた(下すであろう)自分への評価を自分で推し量るしかなくなったら一体どうなるのだろう。
今私は家庭に入って子育てをして…所謂主婦になった。毎日必死に仕事をこなしても時間が足りない。段取りが悪いのだと思い、子どもの授乳時間に合わせて四時半に起きて家事をしてみた。それでも何だかうまくいかない気がする、まだまだもっとできるはず、私がしっかりしなくちゃ、良いお母さんで良い奥さんでもっともっと頑張って甘えちゃ駄目だ…。毎日そう考えていたら、ある日悲しくもないのに涙が出てきて体を動かす気力も無くなった。そんな私を見て主人が言った。「もっと手を抜いても誰もサボっているなんて思わないよ。でも君自身はそれが許せないんだろう?君は今自分で自分の評価をしなければならない社会にいるからね。」
主人の言葉に妙に納得して気持ちがすっと軽くなった。私は評価が欲しかったのだと思う。誰かによく頑張っているよ、と言って欲しかったのだろう。でもそうではないのだ。今まで他人の評価で自分の価値を見出していた私には、自分が頑張っていると実感できていないのだ。例え誰かに何かを言われても私自身が実感できなければどうにもならない。と言って手を抜こうとも到底思えないが、ほんの少しだけ自分を許してあげることにした。何故かイライラして泣いているお母さんより馬鹿みたいに笑っているお母さんの方がずっと素敵だと思うから。

