京都みなみ会館にて「シェルブールの雨傘」(1964年)と「ロシュフォールの恋人たち」(1967年)のデジタルリマスター版を二本立てで鑑賞(ともに主演はカトリーヌ・ドヌーブ)。フランスは美とエスプリの国であることを再確認。さまざまなシーンについても「これが日本映画だったら涙・涙の演歌になるなあ」という部分が実にドライで、というか各自が自立した大人で、とてもすてきだった。
なによりもすてきなのは、衣装と色彩美。全体的にパステル調なのに、きちんと挿し色を利かせているから、すっきりと美しい。「ロシュフォールの恋人たち」はドヌーブと実姉のフランソワーズ・ドルレアックの共演。顔立ちはドヌーブの方が美しいけれど、女優としての格はドルレアックの方が断然上。ドルレアックはこの映画の完成翌年、自動車事故で逝去するが、もし生きていたら、ドヌーブに今の地位があったか、どうか。存在価値として言えば、ドヌーブはスタアで、ドルレアックは女優だった。腿の付け根までスリットの入った赤いスパンコールドレスを着て舞い踊るシーンがあるが、あれはマリリン・モンローの「紳士は金髪がお好き」へのオマージュだろうか。「ロシュフォールの恋人たち」のギイ(主人公ジュヌビエーブの恋人)のロッカーの内ドアには控えめにモンローのピンナップが貼られていたし。こうしたリンクも監督デュミのちょっとした〈おあそび〉なのかもしれない。
「シェルブールの雨傘」は悲恋の恋物語、とは断じがたい。だって、ヒロインのジュヌビエーブは、一生懸命、「恋人のギイを愛している自分を愛している」ように見えたから。何かから逃げたくて、ジュヌビエーブはギイを愛する。だから、恋人たちの会話と悲観度は終始かみ合わない。「真っ白なガソリンスタンドを持ちたいんだ」と夢を語るギイに、「子供がガソリン臭くなるわ」と一刀両断、つまらなさそうに答えるジュヌビエーブ。
別れのシーンで歌う「La gare,para Danielle Licari et Jose revaux」ではジュヌビエーブの「Jet'aime」とギイの「Mon amour」がエコーしてかなりくどい印象もある。堕胎が禁じられていた社会背景もあると思うけれど、なぜギイのこどもを宿しながら、ジュヌビエーブは2年を待つことができなかったのだろう?ギイを載せた列車が走り出すとそっと踵を返し、一人立ち去るジュヌビエーブは、決して振り返らない。日本映画なら、走って追うか、列車が見えなくなるまで見つめ続けるだろう。
彼女が逃げたかったものは、シェルブールの田舎町なのか、母親の密着愛(「ええ、わたしたち、今まで離れたことがありませんの」と母は言う)なのか。ともかく、ジュヌビエーブは終始自分に拠って不幸そうである。でもあのエンディングシーンはさすが。あれは「自分を理解することができない美女とその女に翻弄されてゆえなく傷つけられた男、そして最も地味で自意識が低そうに見える顔面偏差値の低い女こそが、実は最もしたたかでうまくやりおおせる」という映画ではないか(現実社会もそう。華やかな美女ほど実は謙虚で、ほどほど~平均からは激しく水準以下、のほうが自分の顔面偏差値に傲慢不遜で無根拠な自信を抱いているケースはママある)。
橋本治が『貞女への道』(河出書房・1991年)でこの映画について興味深い考察を示している。帰宅して読み返し、なるほどな、と納得。

「ロシュフォールの恋人たち」は文句なしの傑作。ジーン・ケリーのダンスは優雅の極みでまるで空気の上を舞っているよう。あれほど複雑で激しいステップを踏んでも上体が全くブレないのは神業。他のダンサーとはまるで格が違うことは素人目にも一目瞭然。他のダンサーが本当にモタモタして見えるほど、完璧なパフォーマンス。
姉妹がまとうスパンコールのキャミソールやビビッド・カラーのワンピース、シースルーの部屋着なども違和感なく双方の魅力を引き立て、同じものをマドンナが着たらいかほどに下品であろうかと思う。いずれの映画もヒロインの母はシングルマザーで、経済的に自立したマダムだった。母と娘の物語として読むとしても、やはり日本国の価値観よりはかなりドライ。そしてフランス国では母は母でも終生〈女〉を生きている。そこがまた、いい。

カップケーキは大阪の「fait en bonbons」がドヌーブの二作品上映にコラボしたもの、というメモとともに売店に置かれていたもの。コラボというより、オマージュでしょうが。表現があつかましい。とてもかわいいカップケーキ。1個500円也。目にて楽しみ、求めず。

WrittenBy: 櫻井香萌
なによりもすてきなのは、衣装と色彩美。全体的にパステル調なのに、きちんと挿し色を利かせているから、すっきりと美しい。「ロシュフォールの恋人たち」はドヌーブと実姉のフランソワーズ・ドルレアックの共演。顔立ちはドヌーブの方が美しいけれど、女優としての格はドルレアックの方が断然上。ドルレアックはこの映画の完成翌年、自動車事故で逝去するが、もし生きていたら、ドヌーブに今の地位があったか、どうか。存在価値として言えば、ドヌーブはスタアで、ドルレアックは女優だった。腿の付け根までスリットの入った赤いスパンコールドレスを着て舞い踊るシーンがあるが、あれはマリリン・モンローの「紳士は金髪がお好き」へのオマージュだろうか。「ロシュフォールの恋人たち」のギイ(主人公ジュヌビエーブの恋人)のロッカーの内ドアには控えめにモンローのピンナップが貼られていたし。こうしたリンクも監督デュミのちょっとした〈おあそび〉なのかもしれない。
「シェルブールの雨傘」は悲恋の恋物語、とは断じがたい。だって、ヒロインのジュヌビエーブは、一生懸命、「恋人のギイを愛している自分を愛している」ように見えたから。何かから逃げたくて、ジュヌビエーブはギイを愛する。だから、恋人たちの会話と悲観度は終始かみ合わない。「真っ白なガソリンスタンドを持ちたいんだ」と夢を語るギイに、「子供がガソリン臭くなるわ」と一刀両断、つまらなさそうに答えるジュヌビエーブ。
別れのシーンで歌う「La gare,para Danielle Licari et Jose revaux」ではジュヌビエーブの「Jet'aime」とギイの「Mon amour」がエコーしてかなりくどい印象もある。堕胎が禁じられていた社会背景もあると思うけれど、なぜギイのこどもを宿しながら、ジュヌビエーブは2年を待つことができなかったのだろう?ギイを載せた列車が走り出すとそっと踵を返し、一人立ち去るジュヌビエーブは、決して振り返らない。日本映画なら、走って追うか、列車が見えなくなるまで見つめ続けるだろう。
彼女が逃げたかったものは、シェルブールの田舎町なのか、母親の密着愛(「ええ、わたしたち、今まで離れたことがありませんの」と母は言う)なのか。ともかく、ジュヌビエーブは終始自分に拠って不幸そうである。でもあのエンディングシーンはさすが。あれは「自分を理解することができない美女とその女に翻弄されてゆえなく傷つけられた男、そして最も地味で自意識が低そうに見える顔面偏差値の低い女こそが、実は最もしたたかでうまくやりおおせる」という映画ではないか(現実社会もそう。華やかな美女ほど実は謙虚で、ほどほど~平均からは激しく水準以下、のほうが自分の顔面偏差値に傲慢不遜で無根拠な自信を抱いているケースはママある)。
橋本治が『貞女への道』(河出書房・1991年)でこの映画について興味深い考察を示している。帰宅して読み返し、なるほどな、と納得。
「ロシュフォールの恋人たち」は文句なしの傑作。ジーン・ケリーのダンスは優雅の極みでまるで空気の上を舞っているよう。あれほど複雑で激しいステップを踏んでも上体が全くブレないのは神業。他のダンサーとはまるで格が違うことは素人目にも一目瞭然。他のダンサーが本当にモタモタして見えるほど、完璧なパフォーマンス。
姉妹がまとうスパンコールのキャミソールやビビッド・カラーのワンピース、シースルーの部屋着なども違和感なく双方の魅力を引き立て、同じものをマドンナが着たらいかほどに下品であろうかと思う。いずれの映画もヒロインの母はシングルマザーで、経済的に自立したマダムだった。母と娘の物語として読むとしても、やはり日本国の価値観よりはかなりドライ。そしてフランス国では母は母でも終生〈女〉を生きている。そこがまた、いい。
カップケーキは大阪の「fait en bonbons」がドヌーブの二作品上映にコラボしたもの、というメモとともに売店に置かれていたもの。コラボというより、オマージュでしょうが。表現があつかましい。とてもかわいいカップケーキ。1個500円也。目にて楽しみ、求めず。

