ほたる-5-

 街の人にはわからんかもしれまへんが、人の出入りも大きな出来事もそないあれしませんこないな田舎の人は、他人のうわさ話だけがなによりの凝った楽しみですのんやして。そないしてうつしこころなく暮らす加代さまのことを、加代さまの顔すらろくろく知らんもんまでが口にしとりました。こないな村の中では、ひとつ事が起こればその噂は風よりも早う、皆にさあっ、と伝わりますのや。ある後家なんぞは、ある真夏の夜中に、浴衣の胸元をざっとはだけて、乳も腿も露わになったまま、帯をだんだらにひきずった裸足の加代さまが、闇ん中に手えを差し伸べ、差し伸べしながら、何か追うみたいにして、よろよろと田の畦さまよい歩くんを見たと言いましてん。その加代さまのお姿には気丈なその後家すら肌が粟立ったと言うことやって、何とも声をかけることもできんと、後家の方こそ慌てて身隠したということでした。それを聞いて、そないな話あるもんやないとわしは笑うたんですがなあ、そやけどあの嬢(とう)さん、何ぞの物の怪にでも憑かれとるのやなかろうか、とまだ真顔で恐ろしがっておりました。そして、その話を聞いてから何日かして、その後家以外にも、何人かのおとこ衆は、わしらもそんな女を見たことがある、まさかあれが加代さまかえ、なんとまあ、と後家と声をひそめておりました。 
 毎日毎日、わしら百姓は、田に出んことなんぞ、あれしませんやろう。元の肌色がわからんほどに、耳の穴の中まで黒う煤けた肌しとりますのや。もう、肌の肌理の中までが灼けて黒うなっとるんやな。そやけど、ああしてお屋敷の内でお暮らしの加代さまだけは、夏も、冬も、それはもう、抜けるばかりに白い肌してはったという事やなあ。それでも、いつかは、ようやっと、秋の祭りに包み抱えた下女をお供に従えて、ゆるゆる畦を歩いて散歩しておられる姿をお見かけしたことがありますのや。あれが加代さまが歩いてなさるんを見た最初の事かもしれんかった。女学校時代に比べて、いよいよ肌が白うなってなさったなあ。白いというか蒼いような肌に、すっと一刀、切り込んだような涼しい目鼻をなさっておいでた。黒々とした髪は一筋の乱れもないように結い付けられてあって、お姿の全てはさることながら、後ろ姿でさえも、まあ、帯の結んだ形までもが水際立っておったことや。そやけど、そないな美事なお姿であっても、なんというか、わしら無学の百姓にさえも、何か切ないような、悲しいような、どこか脆いような、不幸せそうな、飴細工の人形さんみたいに思えましてなあ。なんでかしらんと我が心ながらに不思議やったんですわ。加代さまはほんにどこを取っても申し分ない美いお人やのに。そやけど、申し分なく美い、言うことは、かえって本人が他人にはよう伝えきらん、何か抜き差しならん重荷になることもあるんかしらん。そない思うたもんや。そやかて、あんな大きなお屋敷のひとり娘さんで、大勢の人間にかしずかれてお暮らしのことやから、そら、いつかはえらい立派な御良人さんを養子にでも貰わはって、益々結構にお暮らしなさるんやと思いますやろ。そないな思いで、いつも眩しく拝見しとりましたんやで。
 ある日のことですわ。秋祭りの後始末さえ終わって、あとはもう、冬支度に向かうだけの、何となく手持ちぶさたな気持ちの頃のことやった。そうや、秋の祭りが終わっておるんやったら十一月の初めの頃やろうか。わしは、畠に植えた菜やら何やらの手入れと、草引きを、朝からずっとひとりで黙々と、腰をかがめてしておったんですわ。空の高い高い、蒼い蒼い、それは見事な抜けるような秋晴れの日よりでしたんや。静かな、小さい村の事ですさかいに、遠くに間延びする尺八みたいな牛のあくびと、土をいじるしゃりしゃりとした自分の指の音と、あとは空を駆ける雀のさえずりほどのもんしか、聞こえてくるようなもんはおへんわなあ。そやけど、そん時にふと、わしは自分の耳の奥の奥の底の方に、すうっ、と、琴の音色が流れましたのや。こんな田舎の百姓ですさかいに、ほんまの琴なんぞ、まあ見たことも、聞いたことも、もちろんあれしませんのやけど、知らんかったと思うとったもんが、あとから知れば昔から知っとるもんやった、言う事はままあるもんやして。わしは不思議と落ち着いた気持ちで、ああ、これはきっと加代さまの琴の音じゃあと、ふと顔を上げたんですわ。そしたら、何とまあ、遠く、加代さまが田の畦歩いて、こちらに向かって歩いてお出でになるんが見えますのや。

>>next:ほたる-6-
back:ほたる-4- | MagazineTopへ

▶Home

▲Page Top

Magazine Contents List
全て開く | 全て閉じる