あるかなきかの―3

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猿沢池から家まで歩いて5分。今日はapa apa cafeには寄らず、Djangoに立ち寄り、オーナーに「超レア」と勧められた「月曜日のユカ」のサントラを買う。オーナーはフランス映画が好きなわたしのために超レアのブリジット・バルドー写真集を取りよせてくれていて、ふたり頭を付き合わせながらカウンターでじっくりと魅入り、バルドーのフレンチ・エロスにしばし恍惚、俗世を忘れた。いまから30年前、40歳の時にマイクロミニのワンピースとニーレングスのレザーブーツが似合った人である。でもその日は財布に持ち合わせがなかったので取り置きにしてもらい、サントラだけもらって帰った。客の好みをこまかく刺激してくれる、Djangoの不器用ながらもこまかな心遣いが身にしみる。


フレンチ・エロスに盛り上がった脳のまま部屋に戻ると、さっきまで男とセックスしていた部屋にはやけに現実的な汗のにおいが立ちこめていて、いっきに脳は平成21年8月現在に引き戻された。部屋の空気はいやに乾いた感じで、射抜くようにしてわたしの右脳を刺激する。
徳島に住む友達が送ってくれたすだちが箱いっぱいにあったから、鏡月のロックに絞り込んでとめどなく飲んでいたら、37歳会社員が8時にやってきた。今日は水曜日。彼が来る日だった。でも、わたしはそんなことすらうっかり忘れていたから、あわてて部屋を片づけて、37歳に飲み物を勧めた。男は今頃、清く正しい日本の家庭にたどり着いたのだろうか。


37歳は連れ子付きのバツ1の奥さんと初婚で結婚したが、半年にしてはやくも家庭が墓場化してきたと言って、最近よくやってくる。それはそれでいいのだけど、入り浸られたり、奥さんにバレて面倒なことになるのだけはゴメンだと、ちょっと警戒してる。だって、奥さんに訴えられたら、わたしは慰謝料が払えないもの。
それに、泣いたり騒いだりの血祭り騒ぎや情緒的な諍いはめんどくさくてゴメンだし。


5人はそれぞれにセックスの癖があるのだけど、37歳は今日はじめてわたしをかわいがるためにその手の店で中サイズの黒い乗馬鞭と、ファーでふちどられたアイマスクを買ってきてくれた。あと、リストカフスも。これはピンクのサテンにクリアのスワロフスキーカフスが付いていてとてもきれい。でも、どのみちわたしはリストカフスをしている自分を自分で見ることはできない。
カフスをはめたわたしは、ただ見られるためにだけある。被虐的行為に快楽を感じるタイプにとっては、相手の視線は実在の圧力。まるで藤のツタが木にからみつくように自分の皮膚の上をねっとりと這う「リアル」な快感だ。触るか触らないかのあやうい距離で、上質のチークブラシに全身を舐られるような。そんな視線の導線に体中を這い尽くされて、四つんばいになるわたしのからだは、うごめく植物のようであり、眠る動物のようでもある。
 

37歳はわたしのあたまを押さえつけてぐしゃぐしゃとつかみしだきながら、わたしのディープスロートにうめき声を漏らしている。わたしは自分の全神経を口唇と舌先に集中させて、彼のなすがままに、あたまを振るだけ。アイマスクの下でまぶたがどれほど細かく痙攣しても、上唇が震えながらめくれあがっても、わたしは決してアイマスクをはずして自分を見ようとはしない。乗馬鞭が何度も振り下ろされて、わたしのおしりは紅く腫れ上がって熱を帯びているけれど、わたしはそんな痛みに陶酔して、カフスに両手を縛られたまま、相手のなすがままにすべてを受け入れ、ドギースタイルで嗚咽しながらお願いをする。もっと痛くしてください、と敬語を使ってお願いする。その声は、自分でも知らなかったような、細く揺れるかぼそい声。


痛むからだをリアルとして感じるとき、わたしは自分自身の存在にささやかな安心を感じる。おしりが腫れ上がって火のように熱くても、その熱の分だけ、自分の中にまだ救いのようなものがちいさく宿っている気がして、すこしだけ、やすらかな気持ちになる。ちくちく響くカラダの痛みに癒されるだなんて、やっぱり滑稽なことだろうか。
よく人は「お金なんか要らないからこころが欲しい」というけれど、わたしは「こころなんか要らないからカラダだけ欲しい」と男たちに言ってきた。そしてそれは相手にとっても渡りに舟だったわけで、望みは理想通りに履行されたのだけれど、今日がわたしの誕生日だと知ってか知らずか、こんなマニアな贈り物をあつらえてくれた37歳の気持ちが、ちょっとだけ滲みた。男は花の一本も贈ってくれなかった。


29歳の大学院生、37歳の会社員、41歳の会社員、59歳のバーマスター、62歳の物書き。それぞれがそれぞれの所属社会と家庭を抱えて、表の顔を機能させながら今日を生きている。そしてわたしもきっと。わたしの部屋でどんな淫靡な行為に耽ろうとも、どんな猥褻なイメージに相互に陶酔しようとも、そのことは昼間の暮らしを脅かすような脅威には決してなりえない。この契約的な安寧の上に成り立つ破壊と破滅の衝動と欲求を、怠慢と呼ばずして、なんと呼んだらよいのでしょう。


5人の男たちに緊縛されたり言葉攻めをされたり、痛い思いをさせられるのが、わたしは好き。そして彼らも、わたしにそういう思いを与えるのが好き。わたしは5人の男たちと、5人5通りの性のファンタジーを貪婪に貪る。その世界にはひとつの香が一貫して漂い、その象徴となって記憶に深く染みこんでいる。
わたしは、ほんとうに好きな男とは正常位でしかできない。彼を前にすると、からだと思考が素直になれなくなる。こんなわたしが、わたしは不憫でならない。どうしても、縛ってほしい、押さえつけてほしい、痛くしてほしい、とは言えない。5人の男に対してわたしはあまりにも淫蕩であり、男に対してはどこまでも貞淑で、乱れることができないのが、自分でももどかしい。


「栗の花のにおいがする」とあなたが言ったとき、わたしの脳裡に浮かんだのは5人5通りの男たちと過ごす褥にまつわる香のイマージュでした。あなたと共に過ごしながらも、その瞬間わたしは、5人の男たちそれぞれのからだの癖を思い出して内心悶えるように切ながっていたのです。あなたと寝たシーツには、決してこの香が漂わないことをあなたに伝えたかったのだけど。そしてきっと、そのことが一番あなたを傷つけることに繋がるって知っているのだけれど。


あの煤けたストリッパーが干していた古びた布団のシーツにも、きっと同じ匂いがこびりついて離れないって、わたしは確信してる。どれだけ洗っても、干しても、あの香は消えはしない。わたしのシーツには、5人の香が渾然と混じり合って、それなりのバランスを保ちながら、ひとつの調和を保っている。


あなたの前立腺癌の進行は放射線治療にも抗ガン剤にも止められず、あなたはある日突然不能になってしまった。わたしを抱くこともできないあなたを、それでもわたしはあいしていて、そうなると、5人の男と交互に交わり続けるこの日常が、いったいだれに対するどんな報復になっているのか。そのことによって一番傷ついているのは誰なのか。わたしはすでにわからなくなっている。


あなただけが持っていたあの栗の花の香を、もういまのわたしは思い出すことすらできないのが、ただそのことだけが静かにこころに痛いのです。
わたしはあなたを深く傷つけ、ただ損ないたかっただけだったのに。
 
                                     オワリ
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