香炉―2

よし川のすぐ先に戒壇院が見える。細路地ばかり入り組んで、特に目印になるようなものがないから、他人に道順を教えるのは厄介だ。けれど、あちこちから差し込み、差し伸びる小路がどこにつながっているか。その先に思いがけないものがあった時、それを発見したは、そのよろこびの大きさはひそやかさの抑圧に比例する。しろあむから戒壇院に至るこの路も、わたしにとってはたいせつな隠れ路のひとつで、ノイズから逃れたい時には必ずこの小路を通ることにしている。


戒壇院に突き当たり右手を見ると、それまでの道幅の狭さ、閉塞感が一瞬にして反転し、東大寺の偉容とともに、開放的な風景が広がる。
東大寺北には、礎石だけの野原が広がる。その奧に大仏池、そして正倉院がある。わたしはいつも礎石のひとつに腰掛けてしばらくぼんやりとしてから、坂道と階段をのぼって法華堂にゆく。法華堂は東大寺の構内にあって唯一の天平時代の遺構。お水取りが行われる二月堂の隣にあるちんまりとしたお堂だ。二月堂の威容の傍らにひそむようにして佇むその堂が、わたしが一番愛するものであり、また神経を慰撫するものでもあった。
 ひとりで生きていくことは、決意できれば、いや、馴れてしまえば、そう恐ろしいものでもない。「人間は本質的に誰しもひとりだ」とうそぶく者もいるいだろうが、それは結局「つきつめれば案外独りではない」という確信の上に成り立つ強がりじゃないかとわたしはなんとなくおもしろくない。そんな言葉を振りかざす人に限って、案外往生際の悪い甘え屋であることを、いままで散々見知ってきた。でも、いちいち人の言葉尻を捕まえてあれこれ口出しするのも面倒だから、敢えてわたしは何も言わない。もしそれが乗り越えなくてもいいような困難なら、真っ正面から組み合うんじゃなくて、ちょっと横にそれてみて、するっとかわして生きていきたい。ルールを共にできない人とは、一生かかっても齟齬と憎悪しか生み出せないのだから。
東大寺裏_1.jpg
わたしが現在抱える「孤独」とは、孕んだ命を独りで屠った気の重さと暗さであり、その後に続く無明の闇を、ただ独りでやりすごさなくてはならない苛烈な静けさを指す。そしてそれを生涯の秘事とする決意をしてからは、その瑕疵は慰撫されることにないまま、生乾きの瘡蓋となって、いつまでもいつまでも、わたしのこころの片隅に微風に揺れながら引っかかったまま、落ち着くことも離れることもなく、揺れ続けている。


わたしは、どうして毎日法華堂に通ってゆくのか。これほど通い詰めても、毎日毎日他の客と等しく500円の入堂料金を受付に支払い、堂に入る。顔馴染みになった宗務員もいるが、顔を利かせて無料で入れてくれるという訳ではない。ただ無言の笑顔を交わして、私は作務衣の男達に支払いを済ませる。おそらく向こうはこちらに何か得体の知れない気味の悪さを、表現しないまでも私に対して感じているのかもしれない。


法華堂は、別名三月堂とも呼ばれる。多くの東大寺の別院の中で、多くの戦禍火災を免れた唯一の天平時代の遺構には、若き日の行基もここで学に勤しんだとも伝えられるが、真偽のほどはわからない。わたしが大学生のころは内部は石畳で、参拝者は靴のまま奥に入ることができた。そんなざっくりした感じが好きだったのだけれど、いつの間にか堂内には生成の絨毯が敷かれてしまって、参拝するにはいちいち靴を脱がなくてはならない。あの石畳も、天平の昔のもののままだったんだろうか、どうだろう、と思いながらも、毎回あの石畳の方が良かったなと残念な気持ちが胸をかすめる。


スピリチュアリティを啓蒙する人たちは、子は親を選んで生まれてくるとみな口をそろえてのたまう。子は親を選べないという根本的な親子関係の恨み辛みをかわすには新しくてさっぱりした意見だと思うけど、もしそうだとしたら、わたしを親として選んだ子は見込み違いだったとしか言いようがない。ごめんね。お互い残念だったね。お疲れさま。また次の機会があったらわたしを選んでくるのかな。自分で親を選べるんだったら、その親があなたをどうするかまで見通せたらよかったのにね。それとも、わたしに宿ることで、何かをわたしに考えさせようとでもしてたのかな。ともかく、ごめん。またね。


不空羂索観音と向かい合って座ると、真夏にもかかわらず堂内は森の奥のような粒子のこまかい、まろやかな湿度が保たれていて、その冷気が紗のように一瞬時にしてわたしの皮膚にまとわりつく。首筋がすうっと冷えたら、足の先まで貫かれるような寒気が襲った。足の先は血が通っていないほどしびれて冷たい。手のひらをみたら蒼く透き通っているような皮膚だった。手術を受けて以来むかえたはじめての生理は思った以上に重く、わたしのちいさな子宮にはいったいどれほどの血液が張り付いていたんだろうと恨めしくなるほどだ。ざくろの色をした経血。ぽたぽたと、したしたと、しずかに深く、しかし途切れることなく流れるさまは、よし川の下を流れる小川の流に似ていて、わたしはその血の色の鮮やかさが罰の深さに思えて目を瞑る。この程度の罰で赦されるなら、いくらでもわたしを傷めて、そして損なってください、とわたしは祈る。その方がわたしのこころは軽くなるのです。傷めつけられる程度が激しければ激しいほどに、わたしはわたしのありように、ほんのわずかな救いを感じるのです、と。

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