香炉―3

三月堂_1.jpg
わたしはただ、自分の狭い狭い世界観の中で、自分の物差しで自分自身を測りかね、思いあぐねた果てに、ささやかな自己満足にうぬぼれているだけなのだろうけれど。心底滑稽なわたし自身に、他人事のように自分がかわいそうになる。そして、これも自己満足。八方を囲繞するのはただの無地の白壁。わたしは三半規管の狂いそうな迷路の中で、泣き出す勇気さえ奮えなくて、ただ立ちつくす。涙を流して泣くことは、いまのわたしには難度が高い。


小一時間ほどもそうして座り呆けていた時、白髪の小柄な女性がよたよたと入堂してきた。背中を縮めて前のめりの姿勢で歩いて本尊の前に正座する。絨毯の上に直に座るので、壁と垂直にしつらえられた縁側のような台に腰掛けているわたしは、その女性の真後ろからその様子を見る構図になる。女性は自分の手提げから白い花を1本ずつ取り出して本尊の左右に献花する。法華堂があつらえた豪華な仏花の横に滑り込ませるようにして挿した花は、白いカーネーションだった。法華堂の堂内には、わたしと女性のふたりだけ。その内女性は観音経を誦しはじめた。馴れた様子だったので、教本を見ながら誦しているのかと思ってふとのぞくと、手には紫檀と水晶でできた長い数珠を掛けて、ほそぼそとそらんじている。観音経の普門品第二十五は、祖母の家で育てられたわたしには懐かしい音楽でもある。女性はゆうに1時間はかかる観音経をちいさな声で誦し、その後に般若心経まで加えていたから、1時間半はかかっただろうか。わたしは時計を持ち合わせていなかったのでわからないけれど、たぶんそれくらいの時間はかかるだろう。女性は腰でも痛むのかと思うほどに前のめりにかがみ込んだ姿勢のまま、ただ数珠を繰りつつ、経を誦した。わたしは音楽のようにそれを聴いてぼんやりしていたが、女性は足を崩すことはなかった。


誦経を終えると女性は何かをぶつぶつ呟きはじめた。堂内は相変わらずわたしと女性のふたりしかいない。最初は何か話しかけられたのかと思って身構えたけど、女性が微動だにせず語りかけているのは、本尊の不空羂索観音だった。何を言っているのかわからない。声が聴き取れない。こんなに音の響く堂内で、なんの雑音もない空気の中なのに、女性の声が聴き取れない。それほどささやかに、そしてくぐもった声の質。口の中だけで音が響いているのだろう。どんなに神経を集めて耳を澄ましてみても、それが日本語なのかさえわからない、語りかけているのか、お願いしているのか、呪文を唱えているのか、わからない。経をあれだけはっきりとした滑舌で唱えながら、別人のように歯切れが悪い。そうした様子が10分ほど続いたので、わたしは妙な気持ちになってそこを動くことができなかった。異様という言葉を充てるほどではないのだけれど、奇妙な吸引力を持って、その女性はわたしの視線を引きつけて放さなかった。下着の線がはっきり見えるほどに着古した、白い質素なシャツを着たちいさな背中は楕円形に見える。頭が前にのめり込んで、落ちたように見えてしまうからだ。ぬるい炎に端から触れてみようとするような奇妙な好奇心で、わたしは女性を眺めていた。女性は何かを言い終えたのか、その後頭を床に擦りつけながら三礼してから、堂外の受付に向かって「もしもし」と大声を張った。
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