香炉―4

不意打ちの声にわたしは体が固くなったが、だれもその声に反応しないので、女性は更に続けて「もうし、もうし!」と声を張った。本尊の前に座ったまま声を張るので、歩いて受け付けに行けばいいのにと思いながらなおも眺めていると、作務衣の宗務員がはいはいと小走りにやってきた。その顔に浮かぶ投げやりな様子を見て、この女性が法華堂の常連であることがわかった。あきらかに面倒そうな宗務員の表情だが、しぐさだけは丁寧だった。「なにか御用ですか」「あの」女性は傲然と言い放った。「観音様がお香を焚いて欲しいと言うておられます。お灯明とお花だけで今日はお香がないと怒ってはります。焚いてください」禍々しい空気すらない、すっきりとした異形の姿をそこに見てとればよいのか。女性の目や口角は皺の奥にたたみ込まれていて、表情を読み取ることは出来ない。それほど何の手入れもしないままただ老いを迎えた女の顔がそこにあった。「お香ね、さっき切れたみたいですね、朝から焚いていたんですが」「でも今は切れてます。お香を絶やしたらあきません。はよう焚いてください」巫女のような精神の筋力もない、ただの老婆は、見れば見るほど煤けてみすぼらしい姿の女だったが、その声の張りだけ聴くと40代の女のようにも聞こえた。「ああ、はい。申し訳ありませんねえ、すぐに用意しますさかい」若い見ならい僧らしい宗務員は念の籠もった女性の声を、それでも飄々と右から左に聞き流しながら香炉の中に火をともした。すうと紫煙が高い天井に向けて立ちのぼる。「よろしいか」と僧が言うと、女性は重々しく首をたてに振った。「よろこんではりますわ」いったいそれがおぞましいものなのか美しいものなのか、わたしには区別できなかった。


わたしはふたりを残して法華堂を出た。
真夏の朝の日差しに一気に包まれたわたしは、その瞬間透き通った人間になって、そこから徐々に人間の輪郭を取り戻していった。二月堂の前を過ぎ、東大寺裏に向かう途中の湯殿の遺構横を通り過ぎるまで、肉体の浮遊感はわたしを離れなかった。さした日傘が何かに触れて、揺れた。見るとざくろの木にさいた深紅の花だった。ざくろは別名を吉祥果と呼ぶ。ざくろの実を日に透かしたような花の色は、夏の蒼い空によく映える。鉛色をしたちいさな実がこじんまりとぶらさがっていたのをひとつ、もぎ取ってくちびるを押し当てた。この果実の色をした血を流し続けて苦しむことを、わたしは涙を流す代価にしている。鬼母神の母性に対して与えられたこの果実は、産み続ける女の性のために益すると聞くが、ならば産むことを拒んだ女を救う果実は、果たしてこの世にないものか。産むことが自然であるとするのならば、自然に逆らう女がそんな宝を欲しがることは、赦されざる不遜であろうか。
ありもしない果実を遠く彼方に探し求めるよりも、この足下にうずくまって素直に涙を流すか、もしくは居直って母性など本能ではないと言い切る不貞腐れた性根を据えるか。わたしは自分で自分を決めかねてゆきつづけるしかないらしい。
ざくろ2_1.jpg
振り切るようにして顔を上げた瞬間、ふと髪の匂いが立った。
わたしの髪には、法華堂の香炉の匂いが染みついていた。



 
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