歌集を作った時もそうだったけど(『狂愛』大澤蓮名義、2003年)、読者が作者と作品を分離できなくて、困った。いまも、困る。短編を一人称で書くからだろうか。創作と自我の距離について考えざるを得ない。知らないことは書けないけれど、知っていることもまた限られてくる。だから物書きは嘘が上手な人の適職だと思う。ecritを読んでくれた人には、「実際のあなたと違う」と言う人もいる。けれど、わたしの存在と書いたものは、分かちがたく結びついている。どちらか一方だけが正解ではない。なのに、書いたものは、書き終えたときからひとり歩きをどんどんはじめて、わたしそのものから遠ざかっていく。不思議なことに。
高校生の頃、アンリ・トロワイヤの『女帝エカテリーナ』(中公文庫)を読んで、人は生まれつきの容貌だけではなく、知性によっても美しくなれることを知った。とはいってもわたしの知性は京都の三流私立に入った程度のものだけれど。高校生のわたしは、例えばひとつのことを10人で経験した時、経験値の表面積は同じでも、容積で他を抜く人間になろうと思った。そういう目で世界を見ながら生きようと思った。だから引き出しにどんどんストックがたまっていった。物を書くときは、その引き出しから少しずつエッセンスを出して書く感じ。もちろん何かにぽん、と弾かれて書く場合もあるけれど。
過去の在庫が現在の行為もしくは直近の過去の完了した事実のように読まれてしまうのも、わたしの筆の至らなさなのか。「書かれたもの」と作者の関係が正直よくわからない。物書きは嘘つきであっていい。けれど、その嘘は他人を傷つけるための嘘ではなく、嘘という虚構(仮定・仮想)を用いて自分なりの真実を書こうと挑む、逆説の嘘でなくてはならないと思う。
高校生の頃、アンリ・トロワイヤの『女帝エカテリーナ』(中公文庫)を読んで、人は生まれつきの容貌だけではなく、知性によっても美しくなれることを知った。とはいってもわたしの知性は京都の三流私立に入った程度のものだけれど。高校生のわたしは、例えばひとつのことを10人で経験した時、経験値の表面積は同じでも、容積で他を抜く人間になろうと思った。そういう目で世界を見ながら生きようと思った。だから引き出しにどんどんストックがたまっていった。物を書くときは、その引き出しから少しずつエッセンスを出して書く感じ。もちろん何かにぽん、と弾かれて書く場合もあるけれど。
過去の在庫が現在の行為もしくは直近の過去の完了した事実のように読まれてしまうのも、わたしの筆の至らなさなのか。「書かれたもの」と作者の関係が正直よくわからない。物書きは嘘つきであっていい。けれど、その嘘は他人を傷つけるための嘘ではなく、嘘という虚構(仮定・仮想)を用いて自分なりの真実を書こうと挑む、逆説の嘘でなくてはならないと思う。

